昨日のヒーリングについてもう少し
昨日のヒーリングについて何か書こうと思っていたのですが、子供が泣いたりそわそわしたりで余裕がありませんでした。
抱っこしてあやしながら、片手で長文を書くのは流石に難しい。
それに、抱っこしているだけでは駄目で、しばしば歩き回る必要があります・・・
時々訳もなくそわそわすることがあり、そんな時はおっぱいをあげてもおむつを替えてもそわそわで、抱っこしてもやはり駄目。
そうかと思うと、すっと眠りに落ちていたりして一安心。
でも、布団に寝かせると数分後にはぱっちり目を開いてこっちを見ている。
鼻息がずいぶん荒くて、どうも何か求めている・・・
という具合でもう一度抱っこしてあやすことのやり直し。
こんな調子で色々他のことが後回しになってしまうんですね。
体重は測っていないのですが推定4キロ超。
いよいよ重くなってきて、でもまだ首が座らないのでおんぶ出来ませんから、両手で抱きかかえるしかない(スリングが思いのほか難しくあまり使えない)。
肩も背中も結構辛くなってきますが、筋肉が良い感じにつきそうです。
さて、昨日のヒーリングなのですが、何か今までと違う、又は初めて受けた時のようだ、とか、初めて強い実感を覚えた、とかの印象的なご感想を頂き、良いおしるしを頂いたような気がしています。
「心を捧げる」と昨日書きましたが、これは比喩でも理念でもなく・・・主観的そしてエネルギー的な事実であると思います。
心は常に必ず感情と同義ではない、ということは日頃述べている通りです。
心はそれ自体がエネルギー体であり、いわば肉体の筋肉になぞらえることが出来るもの。
例えば誰かのために筋肉労働によって奉仕したとしても、別にそれ以上の意味はないように、「心を捧げる」と言っても、なんかこうベタベタとしたことを言っている訳ではないのです。
心というエネルギーをそのまま使用する、差し向ける、分け与える、そのような感じなのです。
じゃあ今までのヒーリングと何が違うのか?
まるっきり違うということはありません。
いくらかの点では重複していましたし、物事はそんなに明確にそもそも分類できないものです。
ただ、今まで、比重として心よりも頭を使っていました。
頭・・・すなわち、技を操るということ。
ここがこうなっている、だからここをこうして、するとこうなるから、次に・・・という考え方とその方法論のすべて。
しかしそのやり方では結果を出すことは出来るのですが、結果以上のことを出すことができない。
そこに何か、もっと大切なことがあるのです。
心で挑む時、「なんだか分からない、分からないままで良い、でも触れ合い続け、すると何かが変容し、ほどけていく。なんだか分からないけれど」
そういった過程が生じます。
ここに対して「それは何だろう」という目を向けることは無粋を超えて、惜しむべきこととなります。
炎が疑問によって吹き消されてしまうように。
分からないままに暗闇の中を泳いでいくことは非常な勇気と信頼――物事の成り行きに対する信頼――を試されます。
そのような境地に今まで僕が達することがなかったのは、その困難さから必然だったと思いますが、今になって、自分は良い所に入りつつあるという気がしてきました。
今日もまた徒然と書きました。
明後日15日の瞑想会の前、ご希望の方にはお食事を出します。
13時から入って頂けます。
お値段は1000円。場所は1階和室です。
体と心に良いものをご用意しておきますので、どうぞ食べにいらして下さい。
【次回以降の満月新月ヒーリングその他】
12月15日(日)14時 瞑想会(1000円)15時ー16時半 勉強会(2000円)
12月22日(日)冬至 2000円
12月26日(木)山羊座 新月 5000円(年内最後)